抄録・内容(日) | 本稿の目的は二つある。一つは, コンヴァンシオン派の企業理論, とりわけ, その代表的論者の一人であるフランソワ・エイマール・デュブルネの企業理論(Eymard-IDuvernay[2002a], [2004])の特色を明らかにすることである。そしてもう一つは, そのことを通じて, いまなお日本ではその紹介が始まったばかりで, その全容が明らかになっていないコンヴァンシォン理論の特徴を提示することである。新古典派経済学は, 企業の諸関係を分析しうるツール, すなわち契約理論を発展させることで, 企業が占める余地のない市場理論の欠落をふさごうとしてきた。だが, このツールは生産活動を説明するための新たな枠組みを形成するというよりも, 市場モデルの拡張を行っているに過ぎない。企業を理解するためには新古典派理論を根本から修正しなければならず, そのためには広いパースペクティブが前提とされる。エイマール・デュブルネのアプローチは経済学と政治社会学が交差する場に位置づけられている。彼の企業理論は, 政治哲学の一分野であった政治経済学の政治的次元を再生させることにその特色が見出される。これは同時に, コンヴァンシオン派の大きな特色の一つでもある。資本主義的企業は, 市場を個人の解放を促す統治形態と見なす自由主義的な政治的表現に緊張を導き入れる。自由で平等な個人を公準とする自由主義的ビジョンと真っ向から衝突する資本の大量の集中や扉主のヒエラルキー的権威への賃労働者の従属といったものがそれである。こうした政治経済学的アプローチは, インセンティブの問題(エージェント<行為主体>が最大限生産するためには報酬をどのように支払わなくてはならないか)や調整の問題(企業が効率的であるためには情報をどのように組織しなければならないか)にとどまらず, 互いに利害の衝突が存在するにもかかわらず, エージェントたちが共通の帰属意識を有し, 共通善を追求することを可能にするのはいかなる統治形態であるのか, という問題を取り上げる。この問題を解き明かすことで, 企業の統治様式のよりよき理解へと至る。自由主義的ビジョンは, 大量の資本の集中を必要とする活動に固有の非対称性を過小評価すると同時に, 社会における個人の自律性―そして, この自律的な個人は, 知識や価値の究極的な源泉となっている―を過大評価しており, その知識が有する集合的性質に留意しない。したがって, このようなビジョンに基づき, 企業における社会的紐帯の基礎を個人間の契約に求めることはできない。社会的紐帯を基礎づけている制度を考慮に入れるためには, 社会契約について解き明かす現代の政治哲学を検討しなければならない。その場合, 個人の自律性に異議を唱えることが重要ではなく, その自律性が生得的ではなくて社会の中で形成されるのだということを認識することが重要なのである。 |